10月24日 三峡〜宜昌


言葉を失わせる光と影
夢模様〜夢うつつ〜うつつを抜かす

 今日も早起きだ。どちらかというと高血圧な僕だが、寝起きのテンションは地に堕ちる。6時には船内が騒がしくなり、別の小船に乗り換えるからその準備をしろとの旨をガイドのねーちゃんから伝えられる。この船で行けばいいじゃないかという身勝手な文句は聞き手を得ず、表に出されることはなかった。多少の不満を内包しながら外に出たが、その直後に出会った景色は早起きに対するすべての不平不満を取り除くに充分、いや十二分であった。

 中国の時差は日本から見て−1時間だが、東経120度線は北京よりも東を通っているので、今回のように中西部にいると時刻があまり実際的ではなく、時刻のわりに日の出が随分と遅い。だから6時程度の早起きでもしっかりと日の出を拝むことができる。それはまさに山際に顔を出したころだ。山の影となってまだまだ夜の名残を留める水面、そこに差し込む眩しすぎるほどの一条の光、遠くの山々に神秘的なものをもたせてくれる絶妙な濃さの霧、何をとっても完璧であった。日本での日常において、全く楽しむことなく大半の早朝を過ぎ去らせてきたわけだが、それに対する無意味な後悔が若干ながら芽生えた。

 下船して粗末なバスに揺られること5分、次の船が待っていた。船といっても、100人弱分ほどの椅子があるだけである。むしろボートと言うべきか。定員に達するたびに出発するようで、何隻も連なっていた。我々ももちろん乗り込むわけだが、ガイドのねーちゃんがこの小旅行にはついて来てくれないらしい。やっとお荷物から解放された、と思っているかいないかはわからないがこちらを向いて笑顔で手を振っている。彼女にあってから今まで、どこに行くにつけても「ねーちゃんがいれば安心」と思っていただけにこれは不安である。なんとなく小船に乗り込むのが名残惜しさで躊躇われた。そんなことをしているもんだから、タイミング悪くほとんど空席のない船に乗らなくてはならなくなった。次を待ったってよかろうに我々ばかりやたらと急かされ、後方の通路側という景色を楽しむには最悪中の最悪のポジションだった。

 ここからがいわゆる「小三峡」だ。長江の支流を北上する。峡谷となっているために「長鯤」のような大型船は入り込めない。あまりの席の悪さに不貞腐れ気味の我々であったが、その入り口から少し行ったところであまり険しくない岸が現れ、そこで一度下船することになった。始まりつつある断崖絶壁を歩きながら拝もうというわけだ。細い道を歩んでいく。例によって、そういうところには店が出る。朝食代わりにジャガイモを揚げたようなものを買った。バターなどの味付けもなくシンプルな塩味、下手な味付けをされるよりはこのほうがよほどありがたい。しばらく行ったところで船が先回りしていたので乗り込む。まだ大半の席が空いているではないか。こうなったら早い者勝ちもリセットだと勝手に決めつけ、最前列に座り込んだ。昨日登場した張さんも同じようなことをしていた。資本主義とはこういうものなのかもしれない。

 中国人の「早い者勝ち」に対する考え方はどんなものなのかわからないが、他の乗客はみな律儀に元の席に座っている様子だ。当然、最前列に座るつもりで帰ってくる客も来る。目が合う。至極当然、彼らは納得のいかぬ表情をする。我々は知ったことかと目を逸らす。普通ならここで険悪なムードになるのだが、張さんが我々を前に呼んだ。座席の前は、船頭をはじめ数名の船員のみがそこにいることを許される甲板で、いわば聖域である。張さんが船頭に200元(約1600円)を渡す。船頭は笑顔になって「まあここに座れや」と言い出す。もちろん座席はないので「地べた」だが、屋根もないし「最」前列、これ以上ない特等席である。賄賂社会健在なり。劉備や孔明でなくたって、この状況には嘆きたくもなるだろう。でも、結果的には互いにとって非常に丸く収まった。必要悪の存在が許せなかったらこの国にくればいい。きっと考え方が変わるだろう。

 おかげさまでため息の出そうな光景を心ゆくまで楽しむことができた。形については、山水画の世界を思い浮かべればまず間違いがない。それはそれは、白黒で描きたくなる気持ちもわかるというもので、この造形が中国にだけ与えられたことの不公平感はどうにもしようがない。色彩はというと、その感覚に疎い僕が表現を試みようとする時点でおこがましさを断ち切れぬのだが、まず豊かな碧水が何と言っても印象的である。あえて例えるならば南国の海に似た輝きがあった。そして、ここにしかないであろう両岸の断崖は、木々が苔のように見えるほど壮大な岩壁で、そこに加わる緑の陰翳が独特の深みを付与する。ただの岩壁なら他にもあろうが、歴史の重みを痛いほどに感じる光と陰に彩られたこの断崖は他にはないのだろうと思われた。やはり何と言っても陽に照らされた岩壁に映る陰翳を表現するならば山水画なのだろうと思う。文化の必然性を肌で感じることになった。

 一気に下世話な話題になるが、この船のトイレもすごかった。いわゆる和式便器で、日本のトイレなら水が下に流れていくべき部分に青々とした水が下流に向かって流れている。文字通りの垂れ流しであった。南国の海のようだと称えた碧水だが実は見かけ倒しなのかもしれない。だが、別に三峡の水が臭いとかいうことはないので、どうかイメージを損なわないでもらいたい。この国においては、川にゴミを投げ捨てること、汚物を垂れ流しにすることも一つの文化なのである。多くの人は、何の疑問ももたずにカップラーメンのゴミを川に投げ入れる。おかげで、川の流れが滞りやすい部分には必ずといっていいほどゴミが溜まっている。

 そんなことを考えながら船に乗っていると、船頭らしきオヤジが話しかけてきた。わからないから筆談をしようと訴えると、一応コミュニケーションが始まった。「どこから来たんだ?」「日本だ。」「何の仕事をしているんだ?」「学生だ、大学生(これは『ターシュエシュン』と口で言えた)。」すると、なにやら残念そうな顔をする。次に、我々が今までに中国人と交わしてきた筆談の数々を見せてみろと言ってきた。特に見られて困ることもなかったので断る理由がなく見せたが、広州で何とか日本円を中国元に換えたいと思っていたときに「私は私の1万円を中国元に換えたいのだが」と書いて助けを求めたことがあった。その「10000円」の文字に目がとまって、「オレにその1万円とやらを見せてくれ」と言い出した。どう考えても不審で素直に見せる気にはなれなかったし、そのうえ張さんが「やめとけ」という目配せをする。「すでに手持ちの1万円はない」という嘘をついてとにかくその場を逃れた。ひとまずそれで会話が終わったが、以降次第に船頭の態度が冷たくなってきた。「オマエらはどういう因果でここに座っているんだ?」みたいな表情、言葉をぶつけてくる。それに、我々が甲板にいることを見て他の客も次第に甲板での記念撮影等を始めたために居心地が悪くなってきた。そういうわけで、もういいやと判断して席に戻った。甲板の端に座っていたR君は水しぶきで尻がずぶ濡れであったが、僕はR君というすばらしい壁のおかげで被害総額0だった。

 この小さい船でもこれ以上は入れない、というところが終点であった。しっかり多種多様な屋台が出ている。今や当然の流れとなったが張さんのおごり。ここでもたらふくごちそうになる。しかも、船頭船員数名にも食事をごちそうしているらしく、別の卓から張さんのところにやってきて恭しく挨拶をしている。というのも、船頭たちの飯がないと不当に早く帰路についてしまうそうだ。小三峡の奥における滞在時間を延ばすには事実上の賄賂がまたも必要になってくるということである。金の力、恐るべしと言うほかない。ただ、そこに費やされている金額が日本や台湾の水準からすればごくわずかであることがせめてもの救いであろうか。飯を食べた後、ここで記念にその名も「三峡」という5つ星のタバコを一つ買って船に戻った。不思議なもので、あれほど迫力を感じた三峡の絶壁も帰りにはそれほど目を引くものでない。陽の当たる角度が変わったことや、上流から眺めていることなどが影響しているのかもしれないが、写真も行きで充分に撮ったし特にすることもなくまたも船で眠った。早起きはこういうところで響いてくるからいけない。元の地点に着いて、再び「長鯤」に戻った。

 この時点ではまだ昼過ぎだが、ここから終着点の宜昌まではただ船を滑らすだけである。途中に「屈原祠」というのがあるが、この船はそこには停まらない。することと言えば、たまにデッキに出て改めて長江の流れに身を任せていることを感じるくらいで、自然の雄大さという点で小三峡に劣り、人工美という点で重慶の夜景に劣る景色では腹も満たされない。途中、造りかけの三峡ダムに差し掛かり、「水電部隊建設三峡」というわかるようなわからないような言葉を大掛かりに標榜していた。あれほど我々を楽しませた景色を破壊する三峡ダムに愛着をもてるはずがない。

 もはや船の旅もエピローグに差し掛かっていた。部屋でR君と明日以降の計画を練っていたが、同室で唯一の単独客が退屈そうにしている。しばらく話をしてみると、何と英語が少しできるではないか。ならもっと会話すればよかったという後悔もあり、いろいろと話を聞いてみた。戚さんという、邯鄲(カンタン)出身の医者らしい。邯鄲という地は北京と洛陽の真ん中くらいで、戦国時代の趙の首都である。邯鄲と言われて「刎頚の交わり」や「始皇帝の生誕地」という豆知識が出てくる自分に、中国史をかじっておいてよかったなあと痛切に思った。戚さんも「そう、その邯鄲だ」と言ってくれた。なお調子に乗って「戚という名は漢の高祖の愛妾・戚氏と同じ姓か?」と尋ねると、そうだとはいうもののさっきほどは嬉しそうではなかった。戚氏といえば正妻に妬まれた結果、四肢をもぎ取られて目も潰されるという大惨殺をされた人であり、冷静に考えればそれと同じ姓であるなどと僕のごとき異邦人に言われたくもなかったであろう。怒ったかと思ったが、「まあ吸わないか?」とタバコをくれたので安心した。中国人はある程度親しくなるとタバコを差し出す習慣があるようで、日頃吸わぬタバコをこれまでに随分と吸ってしまった。ちなみに、出国日に横浜駅で買った「FRIDAY」を見せたら戚さん興味津々で、「これはセックス・マガジンか?」と真顔で聞かれて少々困った。

 ひとしきり会話が終わったあと、そういえば昨日この部屋で張さんが中国批判を英語でしていたなぁと思い出す。張さんは台湾人なので中国への入国は非常に困難であり、軽微な偽造を施した許可証らしきものをもっていた。それを見せながら、「中国はクレイジーだ」と連発していたのだ。戚さんもしっかりそれを理解していたのだと思うと、張さんのほうがよっぽどクレイジーであった。それ以前に、そうまでして愛人と中国に訪れること自体も結構クレイジーではある。

 なんてことを思い出していると、張さんが部屋に現れて「上でビールを飲もう」と誘われる。どっちにしても飲むつもりだったが張さんが飲むというなら金銭的にも実にありがたい。三峡ダムより少し下流にもう一つダムがあり、当然そこには水位差があるために船はエレベータのようなものに乗って移動しなければならず、その順番待ちで船が大渋滞を起こすために酒でも飲んで時間を潰すしかなかった。さらに、ガイドのねーちゃんと談笑たり記念撮影をしたりと、後半やや影が薄くなったが二泊三日にわたってしっかり我々の面倒を見てくれたことに感謝した。そして、エレベータを待つ船に小さなボートがやってきて船の客に商売する姿などを目に焼き付けていたらいよいよ船は宜昌に迫った。突如、ガイドに礼状を書くという案が浮上して、中国語会話集やら何やらを駆使してやっとこさ書きあげた頃に船が到着した。多少予定が遅れたようですでに日付が変わろうとしていた。この日と日の狭間にもうひと波瀾あるなどとは考えもしなかった。