10月22日 重慶〜三峡
9時半までに食堂に行かないと朝食は食べられませんと言われていたが、目覚めるなり慌てて食堂に向かうも到着時刻は9時35分であった。扉を開けると、たった5分過ぎただけというのにすでに大掛かりな清掃が始まっていた。ここまでの旅において、中国人は交通関係を除けば時間に律儀であるとしばしば感じていたがここもその例に漏れることなく、いやそれ以上に正確に時計に支配されていた。なんとしても朝飯が欲しいということを食事券とジェスチャーでアピールすると、呆れ顔の店員が明らかに清掃後であるテーブルに着くよう指示してきた。せわしなく片づけをする人たちの冷たい目線に地に足のつかぬ思いをしていたが、出てきたのはいかにも従業員の朝食っぽい坦々麺であった。四川で坦々麺を食べ損ねた我々には思わぬプレゼントとなった。 さて、早く電話をして三峡下りのチケットを得なくてはと思うが、電話は大変だ。R君が張り切って電話をしてくれたので僕は大した苦労をせずにすんだのだが、彼の英語が一向に通じない様子。散々苦戦した末、我々のホテルのロビーに係りの者が行くからそれに会ってくれ、ということらしい。電話係としてR君を部屋に残し、僕がロビーで待ち続けた。これまたなかなか現れず苦戦したが、野球選手の田口にそっくりなオヤジに「ヒラバヤシ?」と呼ばれたときの感動と言ったらなかった。その男がついてくるように言うので急いで精算したが、昨日返すと言っていたデポジットを200元ほどしか返してくれない。どういうことだ!と憤激したが、ただ電話代が引かれていただけであった。ごまかし笑いもほどほどにその男が拾ったタクシーに乗り込むとすぐに旅行代理店の出張所に到着。ここは英語が通じて楽だった。「7時半に出発の船だから、5時にまたここに来い。大きな荷物は置いていっていいぞ」。これだけのメッセージを受け、重慶探索に繰り出した。 重慶は今や直轄市、中国でも五指に入る都市であるが、国民党の臨時政府が置かれたことやその後共産党の根城となったことで拓けた街なので、成都などと比べれば歴史がない。街中のオバサンから重慶市の地図を5元(約80円)で買ったが重慶中を見渡してもこれという観光地がない。予定通り、共産党ゆかりの地である紅岩村へバスで向かうことにした。 紅岩村は共産党のなかでもとくに周恩来と関わりの深い地であり、そこに建てられた博物館の展示物は周一色だ。昔、周がここに立てこもっていたときによく遊んでいたというバスケのゴールや、周がいかに中国人民に愛されていたかを示す展示物など眺めていると、無意識のうちに周ファンになってしまう。しかしながら政治的な圧力とかがあるのだろうか、みやげ物屋には毛沢東のものが多い。意地になって周恩来グッズを買ってみたがろくなものがない上に完全なボッタクリ価格であった。そんなこんなで紅岩村の中をふらつきまわっていると、出し抜けに野犬に吠え掛かってきた。狂犬病に対する恐怖とかいうレベル以前に僕は吠える犬が怖い。全力で逃走してしまった。以降、すっかり及び腰になってしまい歩行ペースが極端に落ちた。 もう一つ鵝嶺公園というところが重慶の観光地に挙げられるようだが時間の都合でそれは諦める。また長江を跨ぐ索道、つまりロープウエーにも乗ってみたかったが河の向こうに目的地がないことと、索道に乗るのにものすごく金がかかることで断念。重慶市街での買い物の方に重点を置くことにした。最も簡単に済まされる昼食として肯コ基、つまりケンタッキーフライドチキンを食べる。マック同様この手の食事は非常に割高であるが、世界共通の味と作法が守られているので無難であることは間違いない。次にCDショップに行ってCDを見ると中国の物価水準を考慮しても法外に安い。中国音楽のCDはあまりなくて、日本でもよく知れた欧米の音楽が氾濫している。1枚10元(約150円)ではレンタルしてCD−Rに焼くよりも安いが、今後1週間持ち歩くことを考えるとバカらしい。特に欲しいものもないなあと肩を落としていると店員が話しかけてきた。「お前は日本人か、お薦めのCDがある」とのこと。4枚組のJAZZピアノのCDで、桑田佳祐や井上陽水といった人たちの曲が収録されている。「これはもうこの店にも1つしかないスゴイCDだ」などというので、その熱意に負けて買ってしまった。60元(約950円)。これは高い。さらに「日劇天后・松隆子」という人の「三叶草」というCDもついでに買った。明らかにスキャナーを使ったなとわかるジャケット写真が笑えた。2枚組で12元(約200円)。続いてフランス資本のスーパーマーケット、家楽福(カルフール)へ。船に持ち込む飲料などを買うが、店内はものすごい人の数であった。ある意味、重慶中で最も集客力のある行楽地といった風で、ろくに物も買わないような人間がごまんといた。こうして外資に食われていくという途上を一つの典型例として目の当たりにした思いであった。 そして先ほど荷物を預けた出張所へ。威勢のいいねーちゃんが「さあ私について来い!」というのでおとなしくついていく。一直線に港へ向かうので、この人から今のうちに三峡に関する情報を仕入れておこうといろいろ尋ねたが、かなり英語は苦手らしくほとんど意思の疎通をはかれぬまま港に着いた。「長鯤」と名乗る船が堂々たるその体躯を世界的大河に悠然と浮かべている。近づけば近づくほどボロが目に付く船であったが、第一印象はそのようなものだった。「重慶虹橋旅行社有限公司」の「虹橋之旅」というツアー名を書いたバッヂをくれる。続いて我々を船の客室まで導き、ここがキミ達のベッドだと案内してくれた。6畳くらいの部屋にベッドが3つ×2段で6人分。あと、熱湯の入ったポットと洗面所がある。成都の宿とほぼ同レベルのベッドで、日本の寝台列車のそれとは雲泥の差であった。「では、出発までまだ2時間近くあるから好きにしてよい」とのことで、とりあえず狭苦しい船から逃げ出すようにして再び港に戻った。 あの絶望的な船の内部を目の当たりにしてなお食堂に期待を持つのは不可能というもの、まだ昼食から4時間も経ていないが炒飯やホイコーローなどで腹をうめておくことにした。他にもよくわからぬ中国酒などを買いこんで出航を待った。その間に船のトイレと浴室はどんなものかと調べてみた。トイレは、股下程度の高さの塀で仕切られているだけの、実にプライバシーに無頓着な構造になっている。しかも、流れるコースが溝になっているだけで、さらにそれが隣の人のところに直結しているので、「川下」の人は「川上」の人の排泄物が自分の下を流れていくさまを目にせざるを得ない。実に下品な話題で恐縮だがいちおう描写はしておく。浴室は、じょうろの出口だってもっとしっかりしてるんじゃないかというようなシャワーが3つ、一室に設置されている。その間に仕切りになるものは何もない。冷静に考えると日本の大浴場だって仕切りはないが、それは基本的に体を洗うときは座るからいいわけで、シャワーを浴びるときに1mとない距離にもう1人いるというのは何というか決して精神的に落ち着ける仕組みではない。さすがはボロ船といったところであった。それに、さすがは3等、特価に思えた乗船料も実は非常に適切に設定されたものであった。 ただでさえ曇り空で暗澹としていた空が見る見るうちに暗闇にと変わり、船の中も外も非常に騒がしくなってきた。同室の中国人4名のうち3名は知り合い同士のようであと1人が若干気の毒だったが、どの人も害のなさそうな容貌をしていたのでひとまず安心した。そこで、ようやく大きい荷物を安心して部屋に置いて外に出た。すると船員の1人が何かの許可証らしきバッヂのようなものを売りつけようとしてくる。どうやら、船の最上階に行くには追加料金を払わなければならず、しかもそれには人数制限があるらしい。「残り少ないよ!」としきりに騒ぐので思わず買ってしまった。一人30元(約450円)。 夜陰を待っていたかのように出航時刻はやってきた。長江の恵みをふんだんに受けて育った重慶の街が所々で暗闇を照らし、世界的大河の上に屯する巨船が機能的な光と装飾的な光をともに尋常でない勢いで放つ。汚い船、汚い大河、汚い街、その汚さをすべて雲隠れさせてしまう夜景は狡猾である。その狡猾さは、夜景を目にした人々にとっては何の意味もない、実にちっぽけな問題なのである。あらゆる汚染は我々の興味を惹くところではなくなっていた。 我らの船の中にも光輝く一室があった。例の最上階の一室である。簡単な酒が出て、ついでにカラオケもできる一室ということで、恥も外聞も投げ捨てた中国人たちが江上まで響く汽笛の3倍くらいの音量で、あるいは怨霊で歌いまくっていた。我々日本人も人のことは言えないが、彼らも上手いつもりだからかなわない。船の中で中国人と仲良くしようと意気込んでいた我々の意志は一気に頓挫へ向かい、部屋に戻って早速眠ることにした。旅行社から案内してくれたねーちゃんが実は船に乗っていて、どうやら船の終着点まで我々をガイドしてくれるということが唯一に近い好材料であったといえる。筆談が中心の会話だったが、その人の口からは「対」(「「トゥイ」と読む。その通り、の意)という言葉が何度も繰り返された。大学の中国語の授業で大の男が「対」「対」と繰り返すのを聞くと殴ってやりたくなったが若い女性の「対」はなかなか可愛げがあっていいものだ。 |